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2008年 12月 15日
「神戸こども総合専門学院ー1」に、理事長・田中英雄の文をそのまま掲載させていただいた。 時代の大見得か、時代を透かした哲理か? 常に激越な言葉を繰り出される田中さん。 「瀬戸の優しい波にたゆたう老後」を夢見る氏は、「モーセ」にあやかり、到来するであろう苦難の時代に宣戦する。 此処に、より激越な言葉を加えたい。 「神戸こども専門学院」は、この学院のメンバーであることが最大の幸せであることをめざす。此処は関わる人びとが個々に「人生の初心」たらんことを願う。 「神戸こども専門学院」は単に社会の〈要請〉に従うのではない。それは〈新たな社会の礎〉に貢献する。 「神戸こども専門学院」は近代がもたらした「職業人」を養成するものではない。仕事と生活が分離され、消費と生産が分離される〈以前〉の、あるいは本来の《くらし》を元にした生き方と共にある職業人の養成を目指す。 いかがでしょうか? 「保育科」を有するすべての大学・短大・専門学校と比較あれ!! ![]() ![]() ![]() # by commonness | 2008-12-15 17:02
2008年 12月 15日
あえて荒れ野の道を選んだモーセ・・・(理事長・田中英雄) ![]() アメリカに端を発する経済危機は、今後の日本にも暗い影を落としつつある。 すでに就職の決まっていた大学生の内定取り消しが行われたり、注文の半減した靴屋が生き残り策を必死で模索しているとか。当然この流れは、少子化で先細りの心配がなされている福祉や教育の分野にも及んできている。 大学の統廃合が考えられたり、競争から脱落して廃校に向かう大学が続出するだろう。全国1200の短大・大学の半数が「市場から淘汰される」と考えられている。40%の大学が定員割れ状況であり、それに対し通常の大学はリストラを進めざるを得ないだろう。一方で、マンモス私大が拡大路線を取り続けている。 4%の私大が志願者の45%を集めているらしい。この率は、淘汰される大学が出てくるに従い増加していく。文科省では3年前、カタストロフィーに備えて、「私学経営支援プロジェクト」を立ちあげている。 危機に臨んでどのような選択をするかは限られている。リスクを承知で己のみの生き残りをかけ、金と力にものをいわせ、ハイスピードで目的に辿り着くのか。それとも、余分なものは捨てて互いに助け合い、時間がかかっても目的の地に辿り着くのか。 旧約聖書には、イスラエルが3000年もの昔、指導者モーセが、エジプトにおける奴隷状況を脱出するときの興味深い記事が載せられている。 エジプトの軍隊の追撃を受けながら奇跡的に紅海を渡り終えたあと、「約束の土地」カナンを一気に目指さず、荒野に出て、南方のシナイ山の方角に民を導いている。そのため、彼は事あるごとに飢え乾いた民衆から、「我々を荒野で殺すためにエジプトから導いたのか!」と迫られている。なぜ苦難の多い荒野の道を選んだのか? 理由は簡単である。地中海の沿岸沿いには、強力な軍事力を備えたペリシテの要塞群が立ち並んでいたからである。ために彼らは、大迂回をして40年もかかり、カナンに漸く入った。しかしながらそのお陰で、イスラエルは人類史上初めての霊性と共同性の両面をあわせもった「十戒」を民族の要として受け入れ、それがために部族としての霊的精神的"核"を持ち得たのである。 仮に、である。 もしもモーセが、信長か秀吉のような戦国の武将であれば、このような迂遠な道をたどらなかっただろう。エジプトから戦車と武器を盗み、ペリシテと戦い、一つずつ砦を落としつつカナンに達したであろう。そのかわり、ペリシテと同じ体質=力に依存する今日のようなアメリカ型の部族になり、霊的精神的イスラエルは歴史に登場しなかっただろう。 過日、30年間無認可で頑張り続けてきた幼稚園の園長さんにお会いできた。建物はマンションの地階、一見したところ幼稚園風でもなく、バスで園児を集めるでもないのに、60人以上の園児がいるというので大変感動させられた。その秘密は、保育内容の研究会活動を地道に続けておられるからである。 本が好きで本屋を始めても、店舗を持ったが最後売りたくない本で店舗を飾らざるを得ない。ならば店舗を持たない書店を考えたヒントブックスの主は炯眼(けいがん)であった。 「文藝春秋」12月号の経済問題対談で、相変わらず従来のマクロ経済の手法で紙幣を25兆円を印刷して市場に流すなど愚かなことをいう考えに対し、元財務官の榊原英資氏がマクロ経済の破綻を告げ、地方に対するミクロな経済を示唆している。 神戸こども総合専門学院は、しばらくは荒野の道に分け入るであろうが、約束の地に入るためには、まず授業の質を深めるとともに、学生ひとり一人がこの学校に来たことの喜びを感じてもらえるよう、様々な創意工夫から始めたい。これまでのご支援に感謝するとともに、今後とも温かいお祈りをお願いいたします。 # by commonness | 2008-12-15 16:13
2008年 12月 10日
昨日、携帯電話に「岡田まさるの携帯から電話しています。今日、明日の命で、連絡させていただきました。」 ・・・「ありがとうございます。」 ちょうど五年の闘病、彼は闘病を「生きる力」に見事に展開させた。 ![]() テロ、自爆、無作為殺人・・・そんな〈無意味な死〉が連日報道されている。 実感の持てない(直接的な意味を見いだせない)経済不況。 商品購買は〈以前と変わりばえなく〉、一般生活は永遠にこのままに存続しそうな。 困っている人は困り、困らない人はそのまま、それぞれに。 〈社会全体〉を包むような「希望」や「期待感」は見えない。 そんなこんなを、「時代、空気」にしていいものだろうか? もしかしたら、〈かりそめの姿〉を追いかけすぎたのか? 「生きる」それ自体が、希望であり期待であることに気づけないでいる? 数日前、夢の中で 年老いた自分が今の自分と対面する場面が現れ、 同時に、目覚めている意識は「感動」した。 ・・・すごい、と思った。 そして、それから夢と意識を何度も交差させながら なにがすごいんだ? と、ひも解きを試みるのだが、「すごい」以上の応答を得られなかった。 だけど、やっぱり《すごい》 # by commonness | 2008-12-10 21:22
2008年 09月 17日
久しぶりにル・グウィンの物語をよんだ。 それから、ちょうど読みたい本をあさりに図書館に行き、書棚をながめていたら「ケルトの賢者「ドルイド」」(スチュアート・ピゴット)という題名が、直感的に「ギフト」とつながり、すぐに読み始めた。 「ドルイド」について、これまでさほどの知識を持たず、ケルトに伝わるおもしろい存在、気になる存在程度で、でもその内少しばかりは知りたいと思っていた。心理学者の河合隼男さんが何かの本で、イギリスでドルイドの儀式を観たことを記していた。 ![]() ケルトという種族・人種(?)はアイルランドを中心にイギリス周辺の人たちだと思っていたけど、〈遠い過去〉、ヨーロッパの相当の地域に分布していたという。考古学的にその実態は証明されているそうだ。が、ケルトは彼ら独自の「文字」を持たなかったので、彼らにまつわる事柄はギリシャ語やラテン語でしか記録を見いだせなく、そのため、時の流れの中で、ケルトは想像上の歴史に描かれ続けてきたという。 しかも、しばしば〈理想の原始社会〉として、ヨーロッパの歴史上の変遷の中で、くりかえし新たな創作を付加しながら、伝えられてきたそうだ。さらに、「文字」を持ち始めたケルトは、じぶんたちの拠り所を、伝えられる〈理想の原始社会〉をより理想化し、あるいは当該時代に即した人間・社会として描き、今日に至っているという。 「ケルトの賢者「ドルイド」」は歴史の検証といえる。それはわたしたちが知らぬ間に「伝統」化している知識や社会規範には、実は「源」をもたない、ある時代の願いや希望から仮想されたものが流布し定着したものがあると。 ヨーロッパの社会基盤が「キリスト教」にあることを、わたしたちは様々な面で前提にしている。が、ちょっとだけ内部事情をみると、そうでもない。それは今日的な様相で想像すると、中国という国の多民族国家の状態に似ている。ひとつの政治体制下にあるが、中国の人たちは同じ生活様式をもっていない。人権問題で諸外国から注目され、その報道から、わたしたちは中国と言えば「儒教」あるいは「タオ」が社会や生活の基盤だと言い切れないことを知っている。そして、一つの国家という体制を維持するために、国民は良くも悪も〈折衷〉した社会・生活を模索している姿を見る。 歴史上、ヨーロッパの「キリスト教」化はその中国の在りようと同じように広がったようだ。 石器時代、青銅器時代。鉄器時代という古い時代、そしてその期間の長かった時代、ケルトという種族はヨーロッパの広範囲にいた。しかもそれら時代区分に相応する技術を持ち、生活スタイルをもっていた。つまり生活スタイルは〈高度〉だった。その存在を認めたのは古代ギリシャであったが、さほどの交流もなく、事実と想像がからまった〈噂〉程度であリ、その噂は〈理想郷〉であった。というのも、ギリシャが認めうる高度な生活用具をもっていたから。それがローマ時代になって、ローマはケルト種族の地域に領土を拡大し、統治下にしてゆく。ケルトは具体的に知られる存在になる。が、ケルトはいわゆる「国家」あるいは「政治」体制を持たない部族程度の小集落の点在、それはローマから観ると〈野蛮〉であり〈原始的〉生活スタイルだった。ここに「キリスト教」が彼らの生活を変えていく。野蛮でありながら高度な技術を持ち、文字を持たなかったケルト故に、「文献」はローマ側から観たケルトの存在を広め、さらにケルト自体は次第にローマ化し、政治体制下に入り、いわゆるヨーロッパ化(キリスト教化)してゆく。そして外部にも当事者も〈まぼろしのケルト〉が言い伝えられてきた。 ![]() 本題、ル・グウィンの物語「ギフト」だが、・・・ わたしたちの思考や判断は、いつだって自身が知らぬ間に獲得した知識を使っている。その知識の大半は自身が生きている現社会体制の基盤と思われてる生活スタイルである。そして自分にとって「良し」とする、いわゆる「利」がある方を選ぶ。また、現在の状況からの変化を求め、「理想」を模索する。 が、物語の背景は、上述した二つの有り様を「素」に戻している。 ひとつは、既成の見方から離れる。社会、あるいは生活スタイルはそれぞれの歴史とともにあり、それぞれは併存し、かつ交錯している。 いまひとつは、変革や変化と共に生きる手だてを〈理想(想像)〉に求めない(誤解を生むような言い方だが)。言い換えれば、急進な変革や変化は、今現在の状況を自身が知らぬ間に獲得した知識と照らし合わせた、もうひとつの極なのだから、折衷、折り合いを見いだす。 物語「ギフト」は西洋の人たちが継承する「ケルト」への思いを下敷きにしたものと思えた。そして、現代のアメリカを軸にするヨーロッパ体制が敷く世界のありようへの警鐘のように思った。国家や体制というのでなく、自らの〈血〉を再検証することの必要を迫っているように。「キリスト教」という宗教を体制化し、その体制下からのいかなる発想も新しい道を開いてはくれない。同じキリスト教世界に生きるものとして、ル・グウィンはそのキリスト教と折衷してきた自分たち(どこかにケルトの血を引く)自身を見いだすようにと。 相変わらずに、うがった見方かもしれない。 が、「ゲド戦記」を読んでいたときも、〈これは今のアメリカか?〉と思えたとおなじように、「ギフト」も今のアメリカの状況が下地にあるように思えてしようがない。 # by commonness | 2008-09-17 22:20
2008年 06月 14日
![]() つい先日、秋葉原で無差別殺人事件が起きた。 事件を知った自分に衝撃は走らなかった。驚きや恐れのような感情のわかない自分に、変だと思った。〈変な自分〉のありようを考え始めた。 考えは普段の情報を元にはじまる。日常化する戦争の報道、世界中の事件や災害の報道、平和でありながらどこかに「寂しさ、わびしさ」の漂う身辺・・・ 何を思ったか、急にドストエフスキーの「貧しき人びと」を読み出す。 もう40年という年月が経っている。高校生の時「罪と罰」を、自分の秘密を暴かれるような恐れと不安にかられながら読んだこと。自分には、それは物語ではなかった、「じぶん」の得体の知れない不安を代弁し、「じぶん」を露わにし、「じぶん」を自覚させるものだった。 今日までじぶんが事件を引き起こさずにこれたことに、何に対してとは分からないけど感謝している。 このように記してることを他者がみたら、潜在的加害者として要注意人物かもしれない。 それにしても、今回の事件に限らず、無差別な突発的な事件が起きると、寂しさや切なさの感情がわき起こる。 このたぐいの報道や論評は変わらず「社会の安定」を前提にどんな意味合いにしろ「正論」的言葉を表す。 ふと藤原新也さんが著した「サカキバラ事件」の追跡文を思い出す。ナイーブに深く進入してゆく〈真相〉への思いは、書き手自身の心理が明かされていくことと重なる。〈他人事〉ではない。そこでは「生と死」が最大かつ最小のキーワード。 ![]() それは〈タイプ〉かもしれない。 「弱さ」という性格に繊細というか、恐れというか、不安というか。 己の弱さを克服したいという願望。 ・・・記すことの思いをどう展開したらいいのかと、心は惑う。・・・ 心が元気なときは「他者とうまく付き合う」ことなんか思いもしない。「自然」と言っていいほどにあまりにも当たり前に、人は人と共に生きている、生きてゆく なのに、何かで、共に生きてゆくことに〈不安〉が現れる。 他者とうまく付き合ってゆかなければならない。 〈社会〉的人間としての至上命令のように感じる。 自分の性格や質を思う以上に、「じぶんは〈悪い人間〉ではないか?」と思ってしまう。 どこに潜んでるのだろう? じぶんという「存在」そのものへの〈不安〉。 また、ふと思い出す。哲学者の鷲田清一さんが著した「〈弱さ〉のちから」。好評だった「聴くことの力」の続編で出された。じぶんはその本を読んで不満だった。〈弱さ〉を様々な現場から、解き明かすと言うより取り上げた内容。「〈弱さ〉のちから」の〈ちから〉に焦点が行き過ぎていたのではないか? たしかに〈弱さ〉は社会の辺境にたむろし、そうおうの生き方を見せている。が、社会一般に認められる環境とはいえず、むしろ〈異〉社会として、時に不道徳の対象にされている。著者が臨床としてのエグザンプルとして取り上げ、そこから〈弱さ〉の一般化を試みようとしているのは疑えないが、〈弱さ〉を取り巻く環境が幾重にも〈弱さ〉を経済的に政治的に利用していることが気になって。 ・・・うまく記せるかな?・・・弱者が《弱者のまま》に強者になっていない。ここでの〈強者〉って、いわゆる「普通の人、一般的な社会人」という意味。 〈弱者〉が「特殊な人」に変容し、いや一般社会(?)が「その人は私たちを脅かすことなく、そしてなにやら〈特別〉の価値観を満足させてくれる人」と寛容した「特殊な人」。あるいは自ら〈弱者〉というレッテルを貼っている人や、だれもが〈弱者〉だとわかる人であることで、己の〈弱さ〉がオブラートできたり、少なからず己の〈弱さ〉に安心できる人。 〈弱さ〉は圧倒的には〈劣等感〉や〈強迫観念〉に現れる。そしてそれらへの対処として「乗り越える」ことが望まれる。近年では、上述の鷲田さんのように、「弱さを自らが容認する、容認できる」ことが望まれる。 だけど、根が深い。一方で個としての人格が望まれ、一方で他者と共に生きることを望まれ。 ![]() 自分自身そうだったが、子どもの頃(小学中学を通して)先生から「お前はなにしてる」と問われることの意味不明な恐怖。自己のありようとして問われ、他者との関係で問われ。大人になって、気が弱いときはあの恐怖が甦り、おれは〈悪い人間〉なんだと思わずにいられなかった。三十数歳まで〈不安〉は繰り返した。その都度、よく事件も起こさず、よく自滅することなく生きてこれたなと思った。 三十二歳の頃か、自分がなんとか社会的に動けるようになり、そしてたまたま自分の活動がNHKで放映され、それを観てくれた高校時代の先生から「よかった、よくがんばった」と電話をいただき、その返礼の手紙に「〈弱さ〉をもつ人間が、弱いがゆえの生きる術を活かせる時代が来たのだと思う」と書いた。 じぶんの場合、「生存」への不安、そして年齢とともに「存在」そのものへの不安が繰り返されたのだと思う。さらに自分が見いだした仕事(活動)自体が「生存」や「存在」を思考させ、それを「問題・課題」として露わにさせるものだった。 だからかな、作家・大江健三郎の作品もエッセイも〈彼の考え〉とは思えず、〈じぶん〉を読み解くような気持ちで読んできた。 社会的活動の基盤になった宮沢賢治の詩・童話の弾き語りで、作者・賢治の「ことば」は〈じぶん〉が〈じぶん〉に直面する時間と空間になっていた。じぶんにとって弾き語りは表現ではなかった。弾き語りをする時間空間は未知のじぶんをさらけ出す時間空間だった。 ・・・いろいろ思い出してくるな・・・ 「いのち」の尊さはしきりに言われる。「存在の危うさ」を言う人は少なくない。「いのち=肉体(身体)」という考えが薄いとも。「生と死」が軽んじられてるとも。 おそらくは誰にでもあるはずの生命的生存の危機感が、なにかでぼかされてるのか、あるいは無意識にも危機感をさけてるのか? 日本の状況に限って言えば、普段(日常)には生存の危機感を意識に上らせなくても良いほどに〈平和〉だと言える? わたしたちはこの社会を強く信頼している、とも言える? 竹内敏晴氏が長年主宰してきたワークショップ「からだとことばのレッスン」で、しばしば自己を開いてゆく課程に〈暴力的な自己〉が露呈する。人には自己に潜むなにがしかの不満や不安を乗り越えたいという無意識な活動がある。その無意識が解かれたとき、多くの人は〈暴力的〉になる。ワークでは、〈暴力的〉になった自分への驚きが相当のものでありながら、潜んでいた〈不満や不安〉への気づきが重視される。「自己を知る」ということのステップとして。そこでは「他者と」の関係性より、「自己と」の関係性が大きく、ある意味心理的に「個」のありようがあつかわれる。 そして一方、〈暴力的な自己〉は、ことばのレッスンに見いだされる〈共感〉によって、解決に向かおうとする。・・・これは別の時に記そう・・・ ダンサー・ピナバウシュの公演では、驚くほどに〈暴力的〉な人間の様がストーリーのそちこちにはめ込まれている。しばしば、あからさまに〈暴力的〉個と集団とを対置させる。それは、きわどく〈舞台〉であることで成立している。ほんとうに、〈舞台〉であることで成立している〈暴力的〉個と集団の時間空間。 おそらく、ピナバウシュの公演は多くの人から尽きることなく多様に論評されてるだろう。じぶんにとって、彼女の舞台は異様な・異態な個(人)が〈共に生きている〉ことの認容の大事さ、また時に異様な・異態な個(人)が一般の人たちを牽引もすることの大事さを、もっと、特殊ではあるが特殊ではない人間模様をみせてくれていると、思う。観客の中の繊細な人たちは異様な・異態な個を自己の中に見いだしてるかもしれない。 じぶんには、ほんとうに、良い意味で《啓蒙》の舞台だと思う。 ![]() 〈暴力的な自己〉、異様な・異態な個を自分の中に見いだしていいのではないか。 他者との〈違い〉としてではなく、生命的に持ち合わせている等しく〈同じ〉質として。 心理では覆い尽くせない〈生存〉の様態。 〈存在〉を認め合う思考のありよう。 たとえば・・・ 宮沢賢治の童話、「よだかの星」「虔十公園林」などにみられる〈弱きもの〉を単にいい話し、あるいは文学的にとらえることなく、そこからの発展を見いだせないだろうか。 何度か記してきたが、悲しく惨い話しを著し得た宮沢賢治自身の〈暴力的な自己〉との格闘として、そしてその中に読者である〈じぶん〉の〈暴力的な自己〉に出会えないだろうか。 けれども、じぶん自身が何かに麻痺してるような気がしてならない。 どうしてだろう。 # by commonness | 2008-06-14 23:57
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